田舎に帰って落ち着いたのでサラリーマン時代までを振り返ってみた

謀だ。

多くの人から言われました。自転車(愛用の折りたたみ)で広島に帰ってくると決めたのは大阪で退職の意思が決まって退職までの間4ヶ月。。職種は営業だったけど8年間まがりにもまじめに業務を行ってきた自分としては、なにかに反抗するようなそんな子供みたいななにか意地みたいなものもあったかもしれません。

人姉弟の真ん中。上には姉と下には弟に囲まれた幸せな家庭に育ちました。両親には迷惑をかけながら大学を受験をさせてもらって希望した東京への進学の夢は叶わなかったけど、十分満足して関西にある大学にいかせてもらいそのまま大阪に就職。そのときまだ祖父母は存命でたださみしそうな顔を時々覗かせていました。結局二人との別れには立ち会えず、大阪から駆けつける形に。祖父母と交わした最後の言葉ってなんだっけ??そんな他人には理解してもらえないだろう情けなさがあります。祖父からはよく私に「お前はこの家でしっかりがんばれよ。」と言われました。たぶん本心だったんでしょうね。横で話を聞くときは熱々のインスタントコーヒーをお気に入りのマグカップに入れてすすりながらの講義でした。たった今にも書きながら鼻の奥に今にもその香りが届いてきそうです。

親に帰省を相談したのは1年前でした。きっかけは30歳と言う年齢もありました。もうそろそろ両親とそして祖父との約束を果たそうかなぁと。まあ早いとかいろいろ言われたこともあったけれども恐らく土地をはなれて暮らす期間としては十分満足もしたんでしょう。何も未練もありません。(今のとこですが・・w)

会人時代は幼稚園とか保育園を廻って営業をしていました。本業は絵本でしたがそれ以外にも遊具やプール跳び箱まで販売したこともあります。自分で販売して資金も回収して個人事業のような経験をさせてもらえたのは本当に貴重でした。

月いや先月か。この6月と言うのは前職ではプールの組み立て業務と言うのがあって、訪園してよくプールを組み立てました。よこで子供たちが「なにしてんの?」と喋りかけてきてきて「プールを組み立ててるよ」と言うと飛んで跳ねて喜んでくれるのを見て癒されもしました。他にも寒い日に取引先に行くと「あんた寒いからコーヒー飲んでいき!」と大阪独特の北河内弁の大きな声で誘いを受けると本当にうれしかったです。

ンバーにも上司にもそして何よりも友人にも恵まれましたが、日々にいったん別れを告げてもう一度12年ぶりに大竹市で暮らしをスタートさせます。まだ20日前後しか経っていないけどたぶんこういう土地柄のほうが性格に合う部分もあるのかなあと思ってもいます。父が育てた野菜を食べているときに幸せを感じますし、ゆっくり釣り糸を垂らして写真を撮ったりしながら現在は試行錯誤を・・・思考錯誤かもしれませんがwしています。しばらくしたら方向性をしっかりだして歩みを進めていこうと思います。

方の祖父は市の文化協会の会長をしていました。だからかはわかりませんが、大竹市の歴史を結構知っていて先日現在の歴史研究会の方と連絡を取って入会させてもらうことになりました。こんな風に大竹という街の内部にコミットしていくような人生にしたいのは間違いないでしょう。プロフィール(about)にも書きましたが街を盛り上げていける人とは一緒に活動していきたいと思っています。大阪から自転車をこいで帰ってるときには今後の洗礼を受けるかのように岡山県から広島県へ入るまではずっと雨でした。冒頭に戻りますが無謀なのはわかっているけれど、待ってくれている人がいれば何とかなるものです。そして送り出してくれる人もありがたいことにいるものです。大阪から広島と自転車でと聞くと遥か向こうですがwebでは海外の人でも真横にいるような感覚です。こんな風に現代のパワーを借りながら生きていこうと思っています。

後になりますがこの街は本当にいい場所だと思います。程よく不便なのでみんな工夫が必要です。無ければ買えばいいという考えから「作れないか」という選択肢をまだ帰省して間もないですが家族から学びました。小さな工夫をのんびりとやっていけたらいいですね。まだ10記事程度しか書いてないので今後は増やして少しでも大竹・岩国・宮島この周辺のおもろい場所を伝えれるようにがんばらんとね!

 

I was told by many people that’s reckless. It was decided to come back to Hiroshima by bicycle (favorite folding) at

 

between 4 months to determine the intention of retirement in Osaka. . My job was sales positions. And we did the work on the hard eight years.

 

I was born in the middle of the three people sister brother. I grew up in a happy home. I have taken the university parents me out the money. And hope did not come true, but I was able to go to kwanseigakuin University. As I got a job in Osaka.

 

Still grandparents had been living at that time. Grandparents I was a lonely likely face because not live with me. Eventually grandparents was journey to heaven. Then I rushed from Osaka. Unfortunately I do not remember the last conversation with the grandparents. It’s really regret. From grandfather I was told the “Ganbare.”. Maybe it was true feelings of the grandfather I feel.

 

It is one year ago I was told to leave the work to the parents. The reason is because I turned 30 years old. And I wanted to fulfill a promise to his parents and grandfather. There are no regrets. (It is at the moment but ·· w)

 

When salespeople are it was responsible for kindergartens and nursery schools. Core business is that to sell a picture book, and I was now selling experience playground equipment and swimming pool, a vaulting horse. The management’s experienced like it was really valuable.
I was blessed to boss and friends, I was once finished the life in Osaka. And we started to live in his second Otake City. It is not passed only still the 20th, but I believe very comfortable life in this city. I feel happy to eat vegetables that my father was brought up.
Finally I will, but I think this town is really nice place. It is necessary to devise so a little inconvenient. I have shifted to the idea that the “whether you can make” from the idea of ​​buy. I have learned from family. I think I want to tell a funny place Otake, Iwakuni Miyajima by increasing the blog post in the future.


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